あずる

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かけ算順序問題、なぜこの話題は論争になるのか

Twitterで時々炎上するので興味を持ち、色んな意見を読んで自分なりに咀嚼して考察してみました。

 

その結果、算数のことを、

こだわる派は「数学の初歩かつ、国語という側面も含んだもの」、どっちでもいいよ派は「数学の初歩」として捉えているのではないかという仮説に至りました。

 

順に説明しますね。

 

こだわる派は、式の意味を考えることが大切だからとよく言います。

例えばりんごを5個ずつ3人に配ると全部でいくつかという問題があったとします。考えの道筋として、

 

リンゴを5個ずつ3人に配ったという具体的な事象

5個ずつを3人に、という意味を表す、言葉としての式

5*3

具象の意味とは無関係の、抽象的な数学としての式

5*3 または 3*5 (これすら認めない方はさすがにいないと思います)

数学としての計算操作

5*3 =15 または 3*5 =15

答えを再び具象に戻す

答え15

 

 

というステップだとして、②が大切だというわけです。

 

(twitterで見かける論争の多くは、②と③を同一視した上で話していて噛み合ってないと感じました。ここで②と③の区別をきちんとしておかないと今後の議論がうまくいかないので補足。例えば「3人に1つずつ配るのを5回」と考えて「3*5」でもいいじゃないかという意見は、②における多様性を認めろという意見です。また交換法則が成り立つからどちらでもいいという意見は、②が大切だという人に③で入れ替えても成り立つと批判していて意味がありません。)

 

ここで、②において「5個ずつを3人」というのは「5*3」とかくのよ、そう約束しようね、と決めているのは数学ではなく、国語の問題です。仮に「5個ずつを3人」という状態を「3*5」とかくと決めている外国語があっても、数学的に間違いではないからです。

 

言語というのは表すものや意味が約束として決まっていて、その約束は文化や慣習によってつくられたもので、絶対的合理性はないという特徴があります。

 

平たく言うと「赤くてまるくて食べるとおいしいもの」を「りんご」と呼ぶのは、日本語がそう約束したからとしか言えないということです。そう呼ぶようになった由来は説明できるでしょうが、絶対に「りんご」でなければならない合理的な理由はありません。実際に「りんご」でなく「apple」と呼ぶ他の言語は存在するし、比較してどちらが正しいとは言えません。

 

そして国語では、りんごの絵を見て「りんご」と書けば正解、それ以外なら不正解とします。言語上の約束を守れたら理解している、守れなかったら理解していないと見なします。それはおかしいことではありません。

 

これらの国語という科目の特徴が、②の立式には含まれています。

 

数学における5*3というのはそれ以上でも以下でもないただの5*3である。それを日本語の中で、5*35個ずつ3人という意味だと約束をした。仮に5個ずつ3人は3*5と表すと約束している他の言語があっても関係はない。国語の問題の中では、日本語の約束を守れたら理解していると見なして正解とし、守れなかったら不正解とする。

 

これは国語の問題として考えれば極めて筋が通っています。

 

つまりかけ算順序にこだわる教え方は、冒頭で述べたように、算数を「数学の初歩かつ、国語という側面も含んだもの」として捉えた結果だということです。

 

数学は極めて抽象的な学問で、人間は具体的なりんごの数を数えるなどの経験なしに数の概念を獲得することはできません。だから数学の初歩である算数においては、どうしても抽象的な数式に具体的な意味をあてはめる「国語」としての側面が入り、それを徹底した先にはじめて抽象への理解がひらける。だから算数では、国語として間違っていればバツにしていい。

 

という理屈です。これは一見筋が通って見えます。

それは本当か?

 

 

一方順序どっちでもいいよ派は、算数も数学のうちと捉え、「数学は数学的正しさという尺度で全てが決まっている」という数学のルールを適応せよと主張しています。

 

私は、これは決してわがままとは思いません。なぜなら、「数学は数学的正しさという尺度で全てが決まっている」ことはそれこそが数学を数学たらしめている大事な掟だからです。小学生でも総理大臣でもネアンデルタール人でも、同じ計算をすれば同じ答えに行き着く。数学のルールに則って思考すれば真理が得られる。そこにどんな人間の主観も慣習も文化の違いもニュアンスの差も関係ない、だからこそ数学は美しく、だからこそ有用です。

 

 その掟を破って、国語として正しいか(ひどい場合には、受験に受かるかどうか)を正誤の基準に持ち込むということは、数学愛好家にとっては冒涜と感じられるほど酷い事態です。それこそ、小学校の一時期だけの話だからと放っておけずに論争に発展するくらいには、重大なことなのです。

 

そして、さらに問題なのが、数学的思考が得意な子ほど、②をスキップしていきなり③から考えることができてしまうという点です。つまり算数に国語としての正誤を持ち込むことを正当化する理由の「理解を促すため」が、できる子どもと、かつてできる子どもだった数学愛好家には当てはまらないのです。

 

そういう子どもは、数学は理解していて正解しているのに、国語として間違っているからとバツをもらう憂き目に合いやすいです。抽象的思考が得意な子どもを持ち、これからどんどん数学の楽しさ、美しさを教えてやりたいとワクワクしている数学愛好家の親がいたとすれば、これは大変かわいそうなことです。「数学は数学的正しさという尺度で全てが決まっている、それだから楽しくて美しいんだ」と伝えたいのに、そうでない理由で教師からバツをもらって落ち込む息子が目の前にいるのですから。

 

そしてもうひとつ、国語的意味づけを経由しなければ抽象の世界に至れない人は、それが難なくできる人から見たら馬鹿にしか見えません。「抽象の世界は難しいから、初歩の算数では国語的な理解を徹底させる教育が大事」という言説がまずピンとこないわけです。いや自分も難しくなかったし、息子も難しく思ってないから、その教育が大事なのは馬鹿相手の話だろうと。馬鹿な人間に合わせるために、数学の世界を冒涜するような採点をし、それによって優秀な息子を理不尽な目に合わせるなんて、許せないのも当然です。

 

「世の中には、馬鹿に合わせるしかない場面があるのだ、もうすこし勉強が進めば、そんな理不尽なことはなくなるから、どうか数学を嫌いにならないでくれ…」と肩を落とし息子を慰める、理系大学卒の父親…こういう場面は容易に想像ができます。なんとも悲しい話です。

 

これが、数学が得意な人ほど順序にこだわる教育を敵視し、馬鹿にし、論争に発展する原因だと私は思います。しかしこういう人は少数派です。大多数の子どもは、式を立てることがまず難しく、「かけ算の文章題で数字が二つ出てきたらとりあえずふたつ並べてかければいいんでしょう」みたいな思考回路の子どもも大勢います。そういう子に対しては、国語としての式のたて方を教え、それができなければ間違いと見なすことは有効な教育でしょう。抽象への理解などはずっとずっと先の話です。義務教育は、一部の優秀な子どもではなく、全員に合わせた教育をしなければならないという事情も、よくわかります。

 

結論

教育の現場では、もちろん子どもの習熟度に合わせた個別対応が一番望ましいです。先生も人間で、生徒の数も多い中ではなかなか難しいのでしょうね。でも日本では吹きこぼれという言葉もあり、海外のような飛び級制度もなく、優秀な子どもにとっては辛い環境だと思うので、改善を望んでいます。

 

また、自分の子どもがそういう事態に陥ったときの対応としては「文章題の立式は国語の問題として採点されるんだよ」と言って、国語としても正しい解答を促すのが得策かなと思います。その際納得がいっていないようなら、それが数学のルールとは違うことも説明して、これから学ぶ数学が楽しみになるような話をしてあげられたらと思います。単に「馬鹿に合わせるしかない」などと煽って他人を見下す癖をつけてしまうのは、一番よくないですね。まあ、自分の子どもがそんなに頭の良い子に育つかどうか、わかりませんけども。